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 夜が好きだ。
 これはたぶん、生まれた頃からそうだったんだと思う。
 秋の夜は、特にそう。
 意味もなく屋根に登って、ぼんやりと空を眺めてしまう。

 この街の空は、晴れない。
 そんなことを考えてしまうと憂鬱になるけど、
こうして月がキレイに見える日があると、
 別にそれでも構わないのかなと思ったりする。

 ――ちゃり。

 見ると、屋根を渡っていく子猫が見えた。
 ちょっと嬉しくなって、声をかけてみる。

 「猫さん猫さん、こんばんわー」

 ……言って、ちょいちょいと手招きをする。
 なーお、と一声鳴いた猫さんは、優雅な足取りでこちらへと昇ってくる。

 訳あって、この街の猫はとても賢い。
 鈴付きならば特にそうだ。

 「おいでー」

 ちっちっ、と指を振ると、猫さんはフンフンと鼻をひくつかせ、
 いきなりペロリと手の甲を舐めた。

 ひゃう、と間抜けな声を出してしまうと、猫さんは1つ軽やかにバックステップをして、
 後ろ脚で首筋を掻き、なーと短く鳴いた。
 ……はは、何か遊ばれてるのはこっちみたいだ。

 寂しいなら、我慢しないで。
 それは、母親代わりの人がずっとボクにかけてくれた言葉だった。
 自分自身そう感じたことは少ないけれど、微かに心細い感覚からは、
 ここ数年のあいだ離れることが出来ないでいた。

 1人は落ち着く。
 確かに、傍にホッと出来る誰かが居てくれたらなぁ、なんて思うことだってある。
 でも、それは。
 そんな人が居ないからこそ成り立つ空想だと言うこともできた。

 微かなユメ。
 乙女の幻想。
 甘い気持ちで潤して、また明日を生きていけるよう、ボクはココロを麻酔する。
 今は浸れ、この空隙に。
 僅かで良いから、苛烈な日々を忘却しろ――。

 なー、と。
 猫さんはボクを見上げて一鳴きした。
 手には、お気に入りのパックジュースがある。

 「キミも、ブルーベリーが好き?」

 うなー、という低い返事。……うーん、どっちなんだろう。
 とりあえず、欲しがってるなら匂いだけでも嗅がせて上げようかな。
 ダメでも、それで解るよね。

 ちょちょっ、と指先にジュースを付けて、鼻先に近づけてみる。
 ぺろり。
 今度はびっくりなんてしない。
 何となく、美味しそうにしているのかな、と思えた。

 そうは言っても、お皿がない。
 代わりになるモノはないかと、ポッケを探ってみる。
 …………用済みになった紙切れがあった。

 

 『環状線の悪魔』 『鏡面世界』 『千十殺』 『英霊拒否』 『腐蝕新呪』

 【吸血朱】  村雨キッカ 

 報償 ――¥ 96,000,000.――

 

 つまらないことを思い出す。
 1ヶ月前に起こった「災害」駆除と、そのあっけない結末。

 嫌な記憶を振り切るように、ボクはその間抜け面を裏返して、キッチリと折り目を付けた。
 何度目かのルーチンで、即席の紙皿が出来上がる。

 「すぐダメになっちゃうけど……、良かったらどうぞ」

 たー、と青紫の液体を注ぎ込む。
 心持ちゆっくりと。
 甘酸っぱい香りがふわっと漂い、猫さんも嬉しそうに鼻をひくひくさせた。

 だけど、数秒して。
 安物の量産紙に幾つもの筋が走り――
 お皿は、だらしなく容積した物を漏らしていった。

 ………………それを見て、気分が、悪くなる。

 ふと、中空の月を見上げた。
 相変わらずの真円を保ったまま、この月は決して落ちることがない。
 封鎖された中央都市に空いた、唯一の穴。悠世界門。
 偽りの太陽であり、偽りの月であるこのヒカリを、それでもボクたちは必要として生きている。

 アレは時に人を活かす恵みとなり、――時に夜族を導くしるべとなる。
 解っていながら、憎むことが出来ない皮肉。
 ボクは、それに向かって手を伸ばした。

 「させないさ」

 我知らず、瞳に力がこもる。
 不可視の情報網が、まるで蜘蛛の巣のようにフレーム外の視界を覆い始める。
 多分、眼鏡を外したら「テキ」以外のものは見えなくなるだろう。
 収斂した殺意を咎めるかのように、傍らの猫が、細く鳴いた。

 「4年後、この街の封鎖が解けるまで。……いや、それから後もずっと」

 区切れた声は、凍えていた。

 「ボクは全ての吸血鬼を狩る。奪われたモノを、取り返すために」

 ――したた、と黒猫がボクの背を這い、ぺろりと頬を舐め上げる。
 ……どうやら、ヘンに舐め癖が付いてしまっているらしい、この子は。

 「ゴメンね、せっかくのお月見が台無しだ」

 耳の後ろを愛撫してやると、目を細めて鼻をすりつけてきた。
 人懐っこいなぁとか思っていると、
 対磁結界が施されたタグに「朔夜」と朱文字が掘られていた。

 「えと、さく……サヤちゃん、かな?」

 お月見の相棒は、ただ喉をゴロゴロと鳴らしながら、うなーと一声。
 どっちだよぅ。

 もうニマニマしながら撫でてやっていると、不意に湿った鼻とボクの鼻がくっついた。

 ……多分、さっきのジュースの所為だと思うけれど。

 彼女の口からは、かすかに血の匂いがした。

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