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 最汚染区域の空は、昼間だというのになお暗かった。
 日は出ているはずなのに、まるで靄の中を歩いているよう。

 びしゃり。

 ……日当たりの悪さにばかり気を取られた所為か、水たまりに足を取られてしまう。
 コートの端に付いた茶色の染みが、あっという間に酸化して白くなっていった。

 「……厭な、匂い」

 思わず本音が吐いて出た。
 この劣悪な環境に耐えかねて、付近の住民はとうの昔に避難している。
 当然だ。こんな障気のカタマリの中で、普通の神経を持った人間が暮らせる訳がない。

 ……だが、世の中広いもので。
 教会の退避勧告を無視して居座り続けたヒトが、1人だけここに存在している。

 今日わざわざこんな所に出向いたのは、
 彼女に会って、ある話をしなければならないからだった。

 憂鬱になる。私は湿った空気に、そっと溜め息を吐いた。

 ――古文書級に読みづらい手書きの地図を、ぐしゃりと握りつぶしながら。

 

 「お、いらっしゃい」

 地元縮尺という言葉に殺意を覚え始めた頃、物理的に傾いて倒壊寸前の印刷所の前で、
 豪快に石灰を撒いている彼女と遭遇した。

 木桶に柄杓。
 紺の甚平に下駄。
 無造作に縛った髪。

 文明レベルが後退した昨今、にわかに流行った和のスタイルだが、
 彼女なら何があってもその姿だったろう。多分。そのくらい似合っていた。

 「はるばる、こんな所にようこそ。ん、冷えるようなら火鉢でも出そうか?」

 笑顔が引きつっていくのが解る。
 こんな異常地帯において、彼女は呆れるほどの順応を見せていた。
 ふと、爺様から受け継いだこの土地を離れられるかー、という頑固親父の台詞を思い出す。
 きっと、似たような理由でここを動かないんじゃないか、と邪推してみた。

 「いえ、お構いなく。すぐに済む用事ですから」

 「そうか。なら良いが」

 懐から何かを取りだして、マッチを擦る。煙管だ。
 何だか、ここら一帯の建物が次郎長長屋に見えて仕方がない。
 アイちゃんなら、多分目を輝かせて喜ぶんだろうけど……。

 「まあ上がってくれ。湿気ってるが……茶でも入れよう」

 玄関脇にに積み上げられた石灰の袋は、ざっと見て、およそ30。
 旧練馬区のサインと袋の形状から言って、恐らく市民プールの跡地から調達したモノだろう。

 例の件が引き起こした局地的な天候異常。
 酸とタールの雨が1ヶ月降り注いだこの土地は、既に教会によって廃棄指定されている。
 本来なら強制的に立ち退いて貰い、一帯を封鎖するべきなのだけれど――

 「どうした。ウチの間取りがそんなに珍しいか?」

 もう見なくなった魚へんの茶碗を盆に載せて、彼女……貴宮シズネは腰を下ろした。

 「いえ、ここで生きるのって大変なんだろうなって思ってました」

 「まぁ最近は住み難いがね。それでも我が家を離れるってのは、色々と難しいもんさ」

 紫煙を吐きながら、微笑してこちらを見る、彼女。

 「やっぱり用件は避難勧告かい?」

 「違います。まずは、お礼を」

 予想外の反応だったんだろう、軽く驚いてちゃぶ台に肘をつく。

 「先日の件は、貴方の協力が有ったからこそ解決したようなモノです。
 遅れましたが、私共からいくらかのお礼をと」

 「……ああ、それなら受け取れない。
 結局解決したのは身内だし、そいつの報奨金も派手にたかった。
 
これ以上何か貰ったら、私はお天道様に顔向けできないね」

 やんわりと、封筒を突き返された。ここまでは、挨拶。本題はここからだ。

 

 「甲斐口空が……昨夜、息を引き取りました」

  

 碗を持つ手が、震える。

 一気に、湿った空気が重みを持ち始めた。

 滞留する沈黙。

 「そう、か」

 それを無理矢理飲み込む、彼女。

 「……これで、みんな逝っちまったか。長塚も、ミコトも、由比菱中条の嬢ちゃんも、
 ……そして『春秋一刻』も、みんな」

 戦士の名前を惜しむように並べ、沈痛に溜め息を吐く。

 「私が知ってるのは、アイツらだけ。教会の中では、もうアンタ1人だな」

 「……彼は、最期まで立派な戦士でした。
 以降は、私が封鎖地区の代表を引き継ぎ、体制を立て直します」

 煙管の灰を安物の磁器に落としながら、彼女は俯き加減に話し出す。

 「教師補からいきなり代表に抜擢、か。それだけ、今が苦しいって事でもあるんだろうな。
 ……こんな状況、3年前まで考えもしなかった」

 「そうですね。先の件のように、今は賞金を賭けてハンターや情報屋と連携し、
 やっと持っているというのが正直なところです。
 封鎖区域内では、教会の均一化勢力もその力を半減してしまうし、
 私達には後継を育てるための術が限られ過ぎている――」

 ぎり、と。
 我知らず奥歯を噛み締めていた。哀れみの混じった視線を感じる。

 そう、私は原姿教会という組織を牽引して行くには、余りにも若く、弱い。
 ふとすると、のしかかった現実の重さから逃げ出したくなる。

 でも、私は。
 これ以上、何かを喪うことの方が耐えられそうになかった。

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